ABOUT
STATEMENT
- 2022SILVER
- 2020luminous dropping incline
- 2019luminous dropping
- 20192019絵画展なのか によせて
- 2018luminous dropping 2018
- 2017HUB-IBARAKI ART PROJECTを終えて
- 2014悲しき南回帰線ステートメント
- 2012wandering
- 2012僕は毎晩、2時間旅をする
「SILVER」シリーズのペインティングに寄せて
今から6年ほど前の「WM」(有無/ウム)シリーズという相反する2つの要素を同空間で見せる作品で、初めてトロトロに溶いた絵具を水平方向に置いたキャンバスに流し込み始めた。その後に「動き・奥行き・光」に着目し、近年はそこに物質が重力により流れる時間を加える作品へと展開する。
その文脈を踏襲している「SILVER」シリーズで多用している金属色は、物理的に光を受け反射する表面(図)としての色と、色と言いながらも色相環に入ることの出来ない非色彩・虚空として背景(地)の両方を併せ持つ。
また他の色材より粒子が大きく重力方向への動きが明確になる。
絵画の基本要素を分解し再構築、抽出することで「観る」ことの根源的な意味を提示出来ればと考えている。
文:中島麦 2022年8月
"SILVER" series of paintings
"SILVER" series of paintings
At that time, I started pouring melted paint on a horizontal canvas for the first time in the "WM" (presence/absence) series, in which two contradictory elements are shown in the same space.
In recent years, I have developed into a series "Multi LD" in which time is added to the material flowing under the influence of gravity.
The metallic colors used in the "SILVER" series, which follows this context, have both a color as a surface (figure) that physically receives and reflects light, and a background (ground) as a noncolor or void that cannot be entered into the hue circle, even though it is called a color.
and a background (ground) as a non-colourful void that cannot be entered into the hue circle, even though it is called a colour.
Also, its particles are larger than those of other colour materials, and its movement in the direction of gravity is clearer.
By deconstructing, reconstructing and extracting the basic elements of painting, I hope to present the fundamental meaning of 'seeing’.
Text by nakajima mugi,
「luminous dropping incline」
「luminous dropping incline」
約3年続けている<luminous dropping>の正方形の画面から離れ、最近は縦方向に細長い作品を制作している。
新シリーズ<luminous dropping incline>では、これまで主題にして来た絵画を構成する根源的な要素としての「動き・奥行き・光」の3つに加えて、「タイムライン( 時間)」を カンヴァスの上で表現しようと試みた。細長い画面になったきっかけは、以前からカンヴァスの側面数cmの幅に垂れる絵具の中にある美しさを見い出していたからだが、それを試す中で「時間の流れ」に気付かされることになった。意図的に傾けた画面にゆっくりと流し込まれた多量の絵具は、重力の方向へ緩やかな(傾斜角によっては素早く)弧を描きながら流れ落ちていく。乾いた軌跡の中に多様な表情が現れ、重なる絵具の中に空間が生まれ、色彩は光を纏う。同時にそれらの関係性が明確に視覚化され「タイムライン( 時間)」を表現することになる。
2020 年になり世界中で発生した未体験の出来事は、様々な既存のシステムを転換し、人間の生きる基底となる五感さえも揺るがし続けている。私自身にとっても例外では無く、日々の生活や制作活動を根本的に見つめ直さざるを得ないほどに影響は大きい。眼前の怒濤にただ呆然と身を任せ流されて行くような感覚、抗う事の難しい社会や自然の営み、とどまる事のない時間の流れを、絵具という物質に置き換えて表現すること、それが私にとっての「絵を描く」目的なのかもしれない。描くという私的な行為が、同時に大河の一滴にもなるのではないだろうか、今さらながらそんなことを思った。
また今回の個展では、鑑賞者に同じタイムラインを体感してもらう試みとしてギャラリー空間での現地制作を予定している。アトリエであらかじめ完成させた作品だけではなく、現場で偶発する出来事や時間も共有できればと考えている。
文:中島麦 2020 年8 月
「luminous dropping incline」
I have recently begun to create long, slender works in the vertical direction,moving away from the square-shaped paintings in my previous series, which I have been doing for about three years.For my new series
in addition to the three fundamental elements of "movement, space and light" that I have been working before.
The reason for the elongated paintings is that I had long ago discovered a certain beauty in the paint that flowed a few centimeters wide on the sides of the canvas.but in experimenting with this, I was reminded of the passage of time.
A large amount of paint poured slowly into the tilted canvasses, flowing down in a gentle arc (or quick, depending on the angle of inclination) in the direction of gravity.
Various expressions appear in the trajectory, spaces are created in the overlapping paints, and colors are clothed in light. At the same time, the relationship between them is clearly visualized and a "timeline" is expressed.
In the year 2020, the world's unprecedented events that have occurred around the world have transformed various existing systems and continue to shake even the five senses that are the basis of human life.
For me as well, the impact has been so great that it has forced me to fundamentally rethink my daily life and creative activities.
The sense that we are simply carried along by the raging waves in front of us, the workings of society and nature that are difficult to resist, the unstoppable flow of time,
my present purpose of "painting" may be to express these points.Even a huge river is made up of countless trivial water droplets, and I believe that the private act of painting can be one of the elements of this society.
In this exhibition, I plan to create the works in the gallery space as an attempt to let viewers experience the same timeline.
I hope to share not only the works that I have completed in the studio, but also the events and times that happen on site.
Text: nakajima mugi August 2020
「luminous dropping」
私は、絵画を構成する根源的な要素として「動き・奥行き・光」があると考えている。その3つをカンヴァスの上で表現しようと試み、この作品シリーズを「luminous dropping」と名付けた。ゆっくりと流し込まれた多量の絵具は、乾いた後も流動感を画面上に留め、物質としての色は多彩な表情 を見せる。また絵具の層の中に空間が生まれ、作品は光を纏う。
「描く」という私的な行為が、美しさ(時にはその対極)を共通言語に、社会と接続できるメディウムになると思っている。
それこそが絵画の次なる展開であり目的ではないだろうか。
中島 麦
2019
luminous dropping
I think that there are "movement, depth and light" as fundamental elements of the painting. I would like to express the three elements in my series "luminous dropping". A large amount of paint slowly poured keeps the fluidity even after it dries on the canvas and expresses various colors accompanied with delicate differences. Space is born in the layer of paint and the work wears light.
Through my action, I expect that beauty (sometimes controversially) will become a common language and art will become a medium to connect with the general society. I think it is the next development and purpose of painting.
nakajima mugi
2016
2019絵画展なのか によせて
私は抽象絵画を描く事を中心に、そこから拡張する出来事を取り込みながら作品を制作している。当展覧会のテーマ「絵画とは何なのか?」に対して、進行中の3つの作品シリーズでアプローチした。
● 窓のムコウの景色をガラス窓のコチラ側でなぞりながら描いていく〈コチラとムコウ〉。目で見て脳で考え分析し、手に伝えて動かす…この反射的な行為は、具象抽象問わず絵を描く事の基本にある。何気ない眼前の風景を深く観察する事で新たな発見があり、動かせない窓ガラスに白い画材で描く事で色のある景色と重なり、その場でしか成立しない作品となる。
●〈WM〉と書いて「ウム」。有と無がテーマの作品をカンヴァスから壁面、そして館の内外に展開している。またWとM は上下対称 ―表裏一体の関係にある。多くの点が有るものと一見なにも無いものが対となる作品。数が多すぎると点は「無数」になり、絵具の巨大な一滴が有る事で何も無い平面に見える。空間や物に直接描いているものであっても、描かれた場(有)がある事で、描かれていない部分(無)に気付くのである。
● 絵画を構成する根源的な要素に「動き・奥行き・光」があると考え、その全てをカンヴァスの中で実現しようとしているものを〈luminous dropping〉と名付けた。多量の絵具をカンヴァスに流し込んでいるこの作品は、描く際に筆を使っていない。しかしカンヴァス面には、色彩と動きがあり、厚みある物質は物理的な奥行きと光をまとう。最小限の要素で最大級の情報を平面上で表現する事、絵画の歴史はその探求に他ならない。
この3シリーズは、私自身が絵画を制作するにあたっての「始点」「展開・拡張」「目的」そのものである。
描くというごくプライベートな表現が、しかし「私」の枠を越えて社会に接続出来るメディウム(媒体)になることは出来ないだろうか。美しさ(時にはその対極)を共通言語に何ものからも自由になろうとすることは、これからの絵画の可能性を開くことだと考えている。
中島 麦
2019/03
"luminous dropping"
絵画を構成する根源的な3つの出来事:「動き(物語)」「奥行き(空間)」「光(能動性)」を 限られた平面の中で表現したいと考えている。様々な実験を繰り返し、ここに辿り着いた。 私はこのシリーズを"luminous dropping"と命名することにした。
2次元の世界の中にいながら、3次元の世界へとつながる感覚が呼び起こされ、 しかも定着している絵具の塊が、まるで液体のままキャンバスの上に溜まり、今にも動き出そうとしている。さらには外からの光が絵具の中に凝集し、母胎に宿った光のごとく饒舌に何かを語り始 める。そんな絵画を目指している。
膨大な量のビジュアルコンテンツが飛び交う今だからこそ、最小限の要素で最大の出来事を、眼前に提示する。
絵画の可能性はそこにある。
中島麦
2018/2
[HUB-IBARAKI ART PROJECT2016-17]を終えて
「公共施設の壁や物に直に絵を描きたい、イベント期間が終わったら撤去するのではなく、作品をそのまま残したい」プロジェクトのお話を頂いた時に、私はまずそんな話しをした。
このような事は私自身はもちろん、当プロジェクト担当の茨木市にとっても初めての試みだった。事例が無い事に対して(当然?予想通り?)関係各所の許可が下りず、担当課である文化振興課のMさんと連日調整のやりとりをしていたのは、1年前の今頃。準備は大詰めを迎えていた。
僕が茨木市とアートを通して関わる事になった始まりは「HUB-IBARAKI ART PROJECT」の前身「HUB-IBARAKI ART COMPETITION」に企画を応募した2013年の事。応募の動機は単純で「このタイミングで僕が作品を作らずして、いつ作るねん」と、長年住んでいる街で始まる面白そうな出来事に、ワクワクしたことがきっかけだった。ただ様々な土地で作品を制作・発表する機会があるのに、人生の多くの時間を過ごしている茨木で何もしていないという事が、表現する上でずっとひっかかっていた。
小さい頃から家庭環境の影響もあり、絵を描いたり物を作ったりするのが大好きな少年だった。近くにアートが在ったがゆえに距離が離れた事もあったが、自らの将来を考える時期に、絵が描きたい、美術に関わる仕事をしていきたいと思うようになった。美術系大学卒業後は、制作活動と教える仕事を続ける中で「絵を描く事」で私が何かと何かを繋ぐ、メディウム(媒体)になる事が出来ないかと漠然と考えるようになった。
様々な想いとタイミングが繋がって、昨年「HUB-IBARAKI ART PROJECT」が新たに始動した。プロジェクト作品の詳細に関しては、この記録集にまとめられてるのでそちらを参照して頂きたい。場に絵を「共存」させること、それを大きなテーマにプランを立て、企画・制作を進めた。既存の公共空間の一部を絵画作品に変換するために、現場で制作するものもあれば、既存の物を持ち帰って絵を描き、また同じ場所に戻すものもある。新たに何かを作るのではなく元々あるモノに手を加える事で、再発見する。例えば絵がある事で素通りしていた壁を再認識する、ただ機能として並んでいる事務器具が作品に変わると、そこで働く事が少しだけ楽しくなる。時代に流されない象徴的なアート作品も良いが、作品を介して周辺の環境と人が繋がることの出来る新しい関係も、これからのアートの可能性だと考えた。
人が行き来する公共施設ならではの出会いもたくさんあった。全身絵具まみれになって制作している渡しを見て、清掃員の方に塗装屋さんと間違われたり、通行する職員さんの会話が養生シート越しに聞こえてきたり、警備員さんが見回りの度に応援してくれたり、対談をお願いした福岡市長さんと一緒にジャンプしたり…(笑)。実制作した4ヶ月の間、徐々に市内各所の施設に作品は拡張していき、最終的に8つの公共施設、計12カ所に広がった。
イベントとしての期間が終わっても作品は変わらずそこに在る。現場で描かれた作品と持ち込んだ作品、制作過程は異なるけれど、設置されたそれぞれの場所で環境になっていく。それで良いし、むしろ今回はそうあって欲しいと思っている。公共施設を利用する人、そこで働く皆さんのの生きている毎日の景色になること、共存すること。絵描き冥利に尽きるプロジェクトとなった。
今こうして振り返ると、反省する事や実現できなかった悔しさも多くあるのが正直なところである。それらは私のこれからの活動の課題であり「HUB-IBARAKI」にとっても大きなテーマだと思っている。アートは世の中を劇的には変える力はないが、出会った人の気持ちを前向きに変える力があると、私は信じている。このプロジェクトがこれからもカタチを変えながらも続いていく事を切に願っている。
最後に多大な応援とご理解のものプロジェクトをバックアップしてくれた文化振興課の皆さん、実行委員会のメンバー、各施設の皆さんに心からの感謝を伝えたい。
中島 麦
2017年12月
「悲しき南回帰線 tristes tropiques」
今回の展覧会は、
1色の絵具を均質に塗ったミニマルな画面と複雑なテクスチャーを持つ重層的な画面という、
対極にある2種類の抽象絵画によって構成されている。
ここまでは前回の展覧会で提唱した『カオスモスペインティング』※ を踏襲したものであるが、 今回の2種類の異なる絵画の対比は、見方を変えれば最小単位とその集合体の補完関係でもある。 近くから鑑賞すれば両者の大きな差異が主題に見えるが、 遠く離れる程に実は2つが1種類の作品に近づいていく事に気づくだろう。 更にこれらの2つは、同一のキャンバス上での固定された組み合わせでは無く、 それぞれの個体は独立しており、組み合わせ自由を前提にインスタレーションされている。
何でも白黒をはっきりさせようとするシステムが加速化している現代社会が、
自閉という弊害をもたらしているとするならば、
私は抽象絵画が持つ構造を認識する事が、
その一つの打開策になるのではないかと思っている。
抽象絵画の表面に見えているテクスチャーやインスタレーションの方法論が、
或る個人の物語や思想ではなく、世界の根底を流れる社会構造を映し出し、
結果、過度な自縛から私達を解放してくれる事になるのではないか...
新しい抽象絵画の構造を通して、 私自身が何ものからも自由で何ものをもつなぐメディウムでありたいと考えている。
2014/10
中島麦
※ 平田剛志(京都国立近代美術館研究補佐員)に拠る。
「night wandering」
明るい昼間には見落としてしまうような、
暗い夜に、じっと目を開けていると、見えてくるものがある。
いつしか夜だった事も忘れてしまって。
それはまさに、night wandering
絵を描く事は、はっきりしているようでとてもあいまいな世界を
手ざわりのある距離に実体化していく作業、記憶の記録です。
wander・・・あてもなく歩き回る、取り留めがなく動く
中島 麦
2012
「僕は毎晩、2時間旅をする」
車窓の景色を見ている事が好きだ。
目の前に現れては通り過ぎていき、どんどん流れていく風景。
見ているものの残像が記憶として積み重なっていく。
どんどん重なっていく記憶の澱は混ざり合いながら、僕の中に入って来る。
通り過ぎていく一瞬の景色は、同じようで違う景色。
生きている毎日は、いつもと同じようで違う毎日。
現在、僕はある専門学校の講師をしていて、週5日は決まった時間の中で生活をしている。
普段は仕事が終わってからの、夜の数時間が作品に向き合う時間だ。
僕にとって絵を描くことは、小さな紙にドローイングする事から始まる。
なるべく次の展開などは考えず、記憶が新鮮なうちにどんどん描いていく。それは自らの目で見たもの、体験したことを一旦身体にとり込み、そして描き出す作業。これを繰り返しながら、タブロー作品への純度を高めていく。
初めは薄く溶いた絵具で画面の中を掻き回すように、面となる部分、隙間として残す部分を探っていく。使用する画材はアクリル絵具、迷っていられる時間は油絵具に比べてとても短い。その瞬間の絵画時間を積み重ねる感覚、乾くと体積が減る絵具の色の特徴、色面の縁に定着する微かな物質感。
流れる様なスピード感を保ちつつ、何度も塗り重ねる中できあがる色面空間に、記憶の風景をとどめたい。
絵を描く事は、はっきりしているようでとてもあいまいな世界を、
手ざわりのある距離に実体化していく作業、記憶の記録です。
もちろん、毎日どこかへ出かけるわけではない。僕の毎晩の旅の行き先は小さなアトリエだ。
慌ただしく通りすぎる毎日の中で「旅をする気持ち」で絵を描こう。
そんな旅の記録が、見る人にとって普遍的な記憶になればうれしい。
2012年5月
中島麦
TEXT, ARTICLE
- 2023新潟市美術館 荒井直美 /「LUMINOUS/MULTI/SILVER~色彩の時間~」によせて
- 2019荒井直美(新潟市美術館 学芸係長)
- 2019三井知行(みつい ともゆき/川口市立アートギャラリー・アトリア 学芸員)
- 2019成合 肇(東京ステーションギャラリー学芸員)
- 2017三井 知行【大阪新美術館建設準備室 学芸員 / 現 川口市立ギャラリーアトリア】
- 2016Gallery OUT of PLACE ディレクター 野村ヨシノリ
- 2015ルーシー・グリーン(占い師)
- 2015画廊編&ぎゃらりかのこアートディレクター 中島由記子
- 2013平田剛志/京都国立近代美術館研究補佐員
- 2013Gallery OUT of PLACE ディレクター 野村ヨシノリ
- 2012奈義町現代美術館 館長 岸本和明
- 2011酒井千穂(アートライター)
中島 麦 展 「LUMINOUS/MULTI/SILVER~色彩の時間~」によせて。@奈義町現代美術館
音でいうところの絶対音感のように、「絶対色感」というようなものがあるとしたら、この画家はそれを生まれ持った人なのだと感じることがある。
中島麦は具象からスタートしながら、ここ10年は筆を使うことなく、もっぱら絵具の、物質性を伴う色の振る舞いの探求を続けている。ときに細かなドリッピングを施すこともあれば、たとえば《luminous dropping》のシリーズでは、その一しずくの色の動きをそのままに閉じ込めてみせた。横たえた自作の分厚いキャンバスに、大量の液体状の絵具を流し込む。顔料が流れ、ぶつかり、沈み、まじりあい、やがて乾いて、その運動がそのまま層となって画面に定着してゆく。色の響きを聞きながら、その強弱をコントロールしたり、あるいは乾燥したひとつの色彩に別の色彩を重ねたり。まるで作曲にも似た、動いてから止まるまでのプロセスを、長時間露光のように記録した絵画。中島の好む彩度の高い色彩が、シンプルな行為から豊かな和音となって響き出す。古来、絵画は動きや奥行きをイリュージョンとして表してきたが、中島はそれを絵具そのものの織りなすドラマに置き換えて封じ込める。
近年はさらに、静かに待つだけではなく、より動的な表現に移行した。さまざまな形状のキャンバスをいくつも複雑に組み上げて、その上から絵具を流していく。色たちはその傾きに応じて、ある時は速く、ある時は遅く、滴り落ちながらいくつものキャンバスの上を渡り歩いていく。色あいの響きにも、色ではない色が加わる。見え隠れするシルバーが鮮やかな色彩と共鳴しながら鈍く光を放ち始める。
色彩分割、アクションペインティング、カラーフィールド、色彩をめぐるモダンアートの展開を、中島自身もひとりの画業の中に綯い合わせるようにして歩んできた。奈義での展示は11年ぶりになるという。中島の奏でる色たちの、新たなる疾走する歓びに耳を澄まそうではないか。
新潟市美術館 学芸係長
荒井直美
VOCA展 2019 推薦文
アクリル絵具にメディウムを混合した液体を、横たえたカンヴァスに、時には3リットルという量をビーカーでゆっくりと注ぎ込む。重くとろみを持った絵具が画面を這う。ぶつかり流れる運動をとどめて凝固する。絵具の深さは濃淡となり、乾かしては繰り返し流し込まれる色彩は地層のように奥行きを生む。作り手の筆触は排除され、流動体は色そのものとなって立ち現れる。
旅で目にした風景を、大胆なフォルムと明快な色彩で表現した作品から出発し、中島麦はドリッピングによるシリーズを経て、常に「色」を追い続けてきた。色という字は、腹ばいになった姿に人が重なる様を表すという。そこから男女の交わりや、ひいては目に映るうるわしいものという意味が生まれた。「いろ」は身体に基礎を置き、われわれの中に眠る本能に近い情を動かす。
《luminous dropping》は極限まで絵画の抽象を目指しながら、官能的で豊かな視覚の悦びへと誘う、開かれた「景色」にほかならない。
A liquid composed of a mixture of acrylic paint and medium is slowly poured onto a laid down canvas with a beaker, the quantity sometimes coming to three liters. A heavy, viscous paint covers the canvas. It contains and solidifies the colliding, flowing movement. The deepness of the paint creates shades of color and as the paint gets dried and repeatedly poured on, it produces a stratum-like depth. The touch of the brush applied by the artist is eliminated and the fluid emerges as the color itself.
Nakajima Mugi began by expressing landscapes he saw while traveling in daring forms and explicit colors. Via a series produced employing the dripping method, he has constantly continued to pursue “color.” The Chinese character “色 (color)” is thought to derive from the appearance of a person lying on one’s stomach with another person superimposed on top. From there, it came to signify a male-female relationship and, by extension, something beautiful to the eyes. “Color” is founded on the body and stirs sentiments close to our instinct, which are dormant inside us.
While aiming to abstract the painting to the utmost limit, luminous dropping is no other than an open “landscape” which invites us to a sensual, opulent joy of vision.
While undertaking projects in public spaces, Nakajima Mugi has consistently been pursuing color. This work was produced by laying the canvas down and pouring paint onto it. Heavy, viscous paint solidifies the flowing movement as it is. The deepness becomes shades of color and the overlapping colors provide depth. While aiming to abstract the painting to the utmost limit, a sensual, opulent “landscape” full of visual pleasure is opened.
Arai Naomi
Curator (Section Manager), Niigata City Art Museum
〈絵画展…なのか?〉はどんな展覧会なのか
「その美術館にはどんな絵が飾ってあるんですか?」
美術館などに勤めていると、よそ他所でこのような質問を受けることは意外と多い。あるいは、
「この絵は何を表しているんですか?」
という質問も抽象的な作品を展示している時に受ける質問としては定番と言えるものである。さらに、
「絵なら分かるんですが…」
これも現代美術、特にインスタレーションやオブジェ、時にはミニマルアートの平面(絵画)を展示している時に筆者が何度かお客様から頂戴したことのある言葉である。
〈絵画展... なのか?〉の発想の発端は、筆者が冒頭の質問を受けた何度目かの機会に、残り2 つの言葉をいただいた経験をぼんやりと連想したことにある。つまり、美術館は絵が飾ってあるところであり、絵は何かを表しているものであり、その何かは絵を見て分かる・分かりやすいものである、という認識が(少なくとも日本では)多くの人に共有されているのではないか、というやや強引な類推から展覧会のアイディアが発展した。
まず「美術館には絵が飾ってある」という認識はどうだろうか。美術館で開催される企画展では絵画を展示作品の主なジャンルとするものは多いし、印象派やフェルメールなど西洋絵画の大型展の人気は根強い。つまり美術館を訪れた人が目にするのは絵画であることが多く、上記のような認識に至るのもごく自然のことと思われる。このことは、西洋絵画がカンヴァスに油彩という移動と保管が比較的容易な形態を得ることで需要や流通が増し、制作される美術品に占める絵画の割合が高くなっていくという流れに沿っている。そして、需要と流通の増加が富裕層や支配者層による作品の蓄積(コレクション)を生み、市民革命を経て美術館の基となる、という経緯とも合致している。
では「絵は何かを表している」「その何かは絵を見て分かる・分かりやすい」という2 点はどうだろうか。西洋の「ファインアート」としての絵画が日本に本格的に紹介されるようになった近代以降の絵画の発展の方向性に対して、これらは矛盾しているように思われる。さまざまな見方や研究があることは承知の上で大雑把にまとめてみると、ルネサンス以降の西洋美術は、種々の支配や制約(宗教・教会や王侯貴族あるいは物の固有色など)からの解放という方向に進んでいるといえるだろう。特に19 世紀後半以降は風景や人の風貌など画題の写真的な描写という大きな成果からも自由になり、ついには抽象絵画、そして戦後のミニマルアートに至るというこの大きな流れは、言い換えれば「何かを表さない絵画」を目指す流れでもある。もちろん「何も表していない」作品であっても、そのようなものを芸術とする理念や主張が表されているという見方もできよう。あるいは「時代精神」が表されているという考えもあろう。しかしそれらは作品に明示されてはいないし、多くの場合作者がそのような理念や時代精神を個々の作品に直接表そうとしてもいない―すなわち「絵を見て分かる・分かりやすい」ものではない。
このような矛盾を孕んだ「絵画観」は、おそらく近代に入って一気に西洋の文物が流入し、伝統的なものとの折り合いをつけながらそれらを受け入れ、西洋化・近代化されていったという日本の歴史的事情に大部分は由来するのであろう。そう考えると矛盾があるからといって一概に否定すべきものではなく、日本独自の「絵画観」とみなすこともできようし、そこから興味深い絵画が生まれてくる可能性にも大いに期待できそうだ。
一方で鑑賞・享受という観点からは、「何かを表さない」方向に進んだ美術の成果を味わうのに向いているとは言い難い絵画観ではあるだろう。これは西洋美術のみならず、近代以降の日本美術の鑑賞にも言えることである。洋画であれ日本画であれ、近現代の日本の画家は「西洋近代(モダニズム)」の影響を大なり小なり受けており、優れた作品を残すプロの画家であれば(受け入れるかどうかは別問題として)ある程度事情を分かった上で制作していることがほとんどである。そのような日本と欧米の優れた作品が日本の美術館には多くコレクションされており、現在でも「モダニズムの系譜」に連なる優れた画家が多く活動している。そう考えると、100年以上にわたって画家たちが追求してやまない「絵画」とは何なのか、日常的な感覚でいう「絵」と近現代美術の「絵画」はどう違うのか、を展覧会のテーマとして取り上げることは、その出品作品を堪能するにとどまらず、鑑賞者の今後の「絵画鑑賞」をより豊かにすることにも資するだろうと考えた。
このような意識から展覧会を構成するにあたり、あえてモダニズム絵画の本道を行くような画家・作品ではなく、むしろ絵画とそれ以外のもののマージナルな領域で活動する美術家― 絵画と彫刻や写真などの両方にまたがるような作品や、絵画の概念を拡張するような作品を紹介し、いわば外堀を埋めることで「本丸」としての絵画(とは何か)を炙り出す手法を採用した。というのも通常の絵画展では作品が絵であることが自明すぎて、意識が「絵画とは」に向きにくく、それを無理にどうにかしようとすると展覧会が変に小難しく説明的になってしまうからである。
周辺から中心を攻める以上、複数の美術家が参加することは必須であるが、各自のしようとしていることが展示を通して伝わらないと絵画との関係が見えてこないため、現実的にはそれほど多くの人は紹介できない。さらに、モダニズムの歴史的な経緯から切れた地平で絵画を扱う人よりも、歴史の末端として自らの仕事を捉えているような美術家を紹介したいと考えた。また、作品が現代の美術として優れていることは当然として、あまり取り付くシマがないような難解な感じのものは避けたい。できれば美しい色や面白い形、人を驚かせ感心させるような手法など、親しみやすい要素を持ったものを紹介したい…と欲張った結果、中島麦、原田要、山本修司という、中堅からベテラン世代の3 人展となった。
実は出品作家を決めた後でこの3 人にはある共通点があることに気が付いた。それは、画面(にあたるもの)が必ずしも垂直であることを前提としていない― 逆に言えば、絵画の持つ垂直という前提にゆさぶりをかける可能性を持つ作品が多いということである。この前提は画家の無意識に強く刷り込まれているのではないか思われる。モネの睡蓮の池や福田平八郎の《漣》など、水平面そのものを描いたような作品であっても、上からのぞきこんだ状態ではなく、垂直の窓に映り込んだような状態で描かれている。絵画は壁に掛けられることを前提にしているのだから垂直で当然、と思う人も多いだろう。しかし絵は垂直という前提自体が教会など建物からの解放後にできたものだろうし、むしろ画家も観客も「絵は垂直」と思い込んでいるからこそ絵が壁に掛けられている、という推論も可能である。そう考えると、この前提から自由であることは、絵画とそうでないものの境界を考える上で重要な意味を持つ。
原田要は、「絵画とそうでないもの」という観点からも垂直性(からの解放)の点からも、「分かりやすい」作家といえるだろう。彼の作品の多くは一見彩色された木彫のようであるが、これを「絵画の意識で」制作しているという。色彩(絵具)が自らを展開するのにふさわしい表面・支持体を追求するうちに彫刻のような形態になったという説明は、言葉だけでは詭弁に感じられるかもしれないが、作品をよく見ると色彩によって表面の凹凸や全体の形状が決められており、納得できるものである。また、通常の絵画の表と裏のように、彩色が特定の面に限定されることも「絵画」の意識の反映であるだろう。美術史的な観点からは、シェイプドカンヴァスやシュポール/シュルファスのアプローチをさらに発展させたもの、という捉え方も可能かもしれない。一方で、作品を壷状の構造にして内部空間と外部を狭隘な通路でつなぎ、見えない内部からそこにつながる外へと彩色するという、彫刻と絵画をより複雑に混交させるような制作過程がモダニズムへの安易な回収を許さない。また、彼は自作が絵画として見られることを強要するのではなく、作品に立体的・三次元空間的な要素がある(その結果、作品面の方向は問題にならない)ことを認めた上で、それらもまた自らの希求する絵画の実現に寄与するもの、と考えているようである。彼の「絵画」は立体という形式を得ることで現実の空間と地続きになる。立体としては花やキノコのような形をしていても、彩色された「画面」は形象を描き出さない抽象であるのも、作品の表面に現実空間から切り離された別の空間を生じさせないための必然であると思われる。鑑賞者のいる空間がそのまま絵画の空間となり、彫刻を見るときのように作品の周囲を動き、さまざまな姿勢をとりながら見ることができる(本展の趣旨からすれば、そのことによって絵画について考えることができる)、つまり絵画を彫刻のような方法でも楽しむことのできる、ある意味でお得な作品といえる。
山本修司は1980 年代の関西で美術教育を受け、キャリアをスタートさせた。彼がいわゆる「関西ニューウェーブ」の作家とみな見做されることは稀なようであるが、それでもこの世代の関西の作家らしく、絵画・彫刻といったジャンルや媒体をもとに制作活動を進めるのではなく、その時どきの自分の興味に従ってどのような作品を作るかを考え、それに適した制作手段を採用している。故に画家ではないことは本人も認めるところだが、近年は木洩れ日への興味が、光が反射・屈折する境界としての水面、水平面へと移行し、それを油絵具で描き出すようになっている。当初、写真をプリントしたカンヴァスに加筆するなどの方法で始められた水面の描写は、最近では完全に「カンヴァスに油彩」で描かれた平面へと変化した。絵画制作に写真を利用するのは今日では全く普通のことであるし、投影された像をなぞるように制作することも、実用的な写真術発明以前の、カメラ・オブスキュラの昔から行われているのだから、これを絵画と呼んでも差し支えなさそうなものであるが、彼自身は「塗り絵である」として絵画とは認めない。(おそらく、本職の画家への敬意がそうさせている)。
また、水(平)面への興味からは、平面作品ばかりでなく小石をつなぎ合わせた立体やレリーフ状の作品も生み出された。多くの場合、平面(絵としての水面)の前に立体(実際の水平面に沿って石をつなぎ合わせている)が展示されるが、現実空間と絵画空間の水平面が対比されることで、山本の平面作品における空間の捉え方が顕在化する。すなわち、彼の平面においては水面を
垂直に変換した状態ではなく、水平なまま描いていると思われるものが少なくない。通常の絵画のように垂直に変換した水面を描いているものも多いため、このことに本人が意識的ではないと思われるが、これもまた、彼が自作を絵画として、自身を画家としては認めない無意識的な理由の一つなのかもしれない。
山本、原田より若い世代に属する中島麦は、作品をそれ自体で完結したものというより、鑑賞者など他者との関係性の中で発展させ、社会の中で、美術にしかできない方法で機能させたいと考えているようであるが、その描き方自体は抽象絵画に見られる手法を用いている。一般に直接的な社会性が薄いとされ、特に日本では(前述の「絵画観」の影響もあり)市民権を得ているとは言い難い抽象絵画によって、鑑賞者や社会と関係しようというのは矛盾しているようにも感じられる。しかしそれは、彼がモダニズム絵画の持つある種の純粋性や普遍性を信じたいと思っているからに他ならないだろう。絵具を自然にまかせて流し、混じり合わせる技法やドリッピングなどは確かに歴史的なものだが、それらを特定の画家や時代・流派の専有物ではなく、誰でもが利用可能なものとして扱うことは、美術史に対するオルタナティブな実践ともいえよう。
彼が壁画的な作品などで採用するドリッピングは、オールオーバーな画面と、支持体の物理的な境界で画面を切断し逆説的に広がりを意識させる点で、ポロックなど抽象表現主義と通底する。しかし、床置きのカンヴァスに上下左右から絵具を注ぐことで重力から解放されたように見えるポロックらのドリッピングに対し、中島の場合はむしろ垂直方向の動きが強調され、この技法が重力によって可能なことを示しているようでさえある。このことは、建物のガラス面に映る外の景色をマーカーで直接なぞる制作やワークショップと並んで「前提としての垂直」を意識させるという点でも興味深い。一方、彼が最近力を入れている正方形のタブローは、カンヴァスが水平でないと描けない。水平にしたカンヴァスに注がれた大量の絵具は、その縁から溢れ出し側面を伝って落ちる。通常よりも厚みのある木枠により側面の状態を強調し、制作時の重力方向が感じられるようにしむけることで、垂直の作品に水平状態を持ち込むことに成功している。
今回紹介する3 人は、それぞれが独立独歩、ゴーイングマイウェイといった感の強い美術家であり、特定の傾向でまとめるタイプの展覧会ではなかなか一緒にならない顔ぶれである。筆者としては、展覧会の企画意図よりもまずは各作家の独創性を楽しんでいただきたいと考えており、その結果、「絵画とは?」という展覧会テーマに自然に行きつくのが理想である。出品作品を楽しんだ結果、他の絵画の見方も変わった、と少しでも多くの人に感じていただければ、企画者としてこれに過ぎる喜びはない。
2019
絵空事ではなく /「絵画展…なのか」カタログによせて
今回の展覧会は、「絵画とそうではないものの境界」を問い、「絵画の可能性を広げる」ことがテーマであると伺っています。まず確認しておくべきは、絵画の歴史は、それが絵画なのかそうではないか判断を惑わせるようなものではなく、明確に絵画の形式を備えたものによって更新されてきたということです。仮に「こんなものは絵画ではない」という者がいたとして、問題の所在はそこにある作品自体というよりも、いかなる立場からそんな発言がなされるのかという方にこそあるのでしょう。ともあれ、もう少し一般かしてここでは芸術をめぐる「境界」について考えたいと思います。僕自身はこれまで美術館学芸員として、絵画とその他、とか、芸術とそれ以外、というような境界(があるとして)をなるべく膨らますような仕事をしたいと考えてきました。ある主題を設定したうえで、暫定的に美術と呼ばれている文化を、同時代の音楽や踊りや、マンガ、テレビ、雑誌、広告などと混ぜ合わせるという、いわゆるポストコロニアリズムやカルチュアル・スタディーズの文脈上に置かれるような方法論を、僕は自分の企画の中で繰り返し採用してきました。そうしたアプローチをとるのは、さしあたり2つの理由からです。1つは、ファインアートと呼ばれる領域が、ある階級意識に基づく差別をはらんでいるなら(ブルデュー『ディスタンクシオン』)、自覚的に是正されるべきだということ。もう1つは、美術館という場所は通時的にな記述と親和性が高く、共時性を考える機会が不足しているように考えて居る事。「専門」や「研究」という言葉は領域の確定を促進する指向性を持ちますが、そういたわけで、僕はできる限り脱領域を意識しながら研究を行いたいと考えているのです。しかしまた、この脱領域という言い方がじつにやっかいです。言うまでもなく、それは確固たる領域意識に裏打ちされてこそ成立するのですから。
あるジャンルや概念などに狙いを定めて境界を画定すべく、「○◯とはなにか」という問いを立てるアプローチはむしと、まさしく僕が主に調査と研究を行っている戦後、特に1960年代後半に大きな潮流をなした革命思想とマチズモの中でよく見られた態度です。絵画とはなにか。芸術とはなにか。言語にとって美とはなにか-----この時代には「インターメディア」や「クロスジャンル」といった言葉も流行し、やはる領域確定的言説と脱領域・領域横断的なそれが表裏一体であることがわかります。
ただし、何らかの概念の稜線を定めようとすると、必ず足場が崩壊する。境界に目を凝らそうとその境界を支えていた概念自体が揺らいでしまう。山の稜線と呼ばれるその線を決定することはいつまでもできません。山ぎわはいつも、補足雲のたなびきたる、わけです。このアポリアに対して、芸術分野を見渡すだけでも多くの多種多様な措置が提起され、実践されてきました。例えば境界をグラデーションとして多層化して分析する(鶴見俊輔『限界芸術論』)、境界を挟むふたつの領域を設定して、その中間を囲い込んでいく(中原祐介『人間と物質のあいだ』)/宮川淳『紙片と眼差とのあいだに』、あるいは、柔軟なゴムのように自在に変幻する境界概念として読み替える(山口昌男『文化と両義性』)。僕が手中的に調べている範囲に引きつけるなら、そして、半世紀を経た今日からの回顧がこのところ賑やかな60年代末という時代に引き寄せるなら、「○◯とはなにか」を問おうとする緊張が最も高まったこの時代をメルクマールとして、袋小路化するこの領域と境界の問題設定の打開を図って、研究者や評論家のみならず優れたアーティストたちが勇躍し始めました。山口勝弘、磯崎新、関根伸夫、宇佐見圭司、戸村浩といったそのアーティストたちは共通して、境界の問題を先に進め得る集合論や位相幾何学(トポロジー)に着目していました。
話しを戻して、僕自身は、絵画なら回がというジャンルにこだわることなく他のジャンルと引き合わせ、絵画とテレビが、広告と彫刻が、演劇とマンガが、同じ問題を扱うことに意義と興味を感じるのですが(そのようなコミュニケーションの通路がなければ絵画は窓どころ単なる壁ではありませんか)、他ジャンルと同列に置いて絵画を区分する境界を膨らませようとするとき、それは無論、絵画というジャンル自体の犠牲や無効を伴うわけではありません。境界が膨らんでなお、分野が備えている自立性は保たれ得るでしょう。絵画は絵画の持つ言語を多後ながら、別んも領域と結びつく原理を備えている。先に名を挙げた60年代から70年代にかけて躍り出た作家たちが数学理論に接近したように(そのような事態はこの時代の作家に限った事ではなく、恩智孝四郎や熊谷守一らをはじめ、科学と美術を架橋した作家こそが美術史を紡いできたことは、岡崎乾二郎さんの近著『抽象の力』で実証的にかつ鮮やかに披露されたばかりです)、通底する原理の触発のやり取りがあってこそ「○◯とはなにか」のアポリアは拓かれることができる。
「絵画とそうではないものの境界」、ひいては「絵画の可能性」を考える、というこのたびの展覧会の射程をパラフレーズすれば、色やかたちを主とする絵画の言語が原理に向かって商店を結び、外部にネットワークを伸ばしているその線の束を、制度を高めて観察するという企図でしょう。「色やかたち」に対して、今なおオッパンに抱かれている定番の印象としての「絵空事」「絵に描いた餅」。すなわち、イマジナリーな、いっときの慰みのような、食えない、思索。そのようなステレオヤイプに抗う、絵空事ではない、原理として他領域と通底し、さらに僕らの生々しい感覚にまで行き届く。具体的な働きかけを、観察するのが本展の主題です。このたび川口市立アートギャラリー・アトリアが選出した3名のアーティストは、いずれもまさに原理的な感覚を、見ているこちらの感覚の変容を、主眼に置いて制作していると言えるでしょう。この文章を執筆している段階で作品を実見することがほとんど叶わないため、詳細は主催者からの解説に譲ることとして、手元にある3名のポートフォリオを見て、思うところを列記しておきます。
中島麦さんが掲げるのは、絵画を通して「動き」「奥行き」「光」を表現するという、古くて新しい王道的なテーマです。動かないものが動き、平たいものの中に奥行きが生じ、ひからないものが光るという、絵画の彼岸であるパラドクサルなイリュージョンの達成を、中島さんは絵具の密度やカンヴァスの併置から成る差異に作しています。原田要さんの作品は、彩色した集成材による中空の構造を持っています。外部と内部の関係(表面と内部空間は連動する必要が無いという被覆関係)を見せるプログラムは、本来は彫刻のプログラムですが、この作品形態は絵画の延長で生まれたものだといいます。おそらく、網膜をなぞるような円形へのこだわりが、絵画との靭帯を示しているでしょう。山本修司さんの、小石の表皮と水面に映る鏡面像を対置させる作品は、まさに網膜の上で浅く前後に漂う空間を再現しようとするものでしょう。水面に反射する光と影像とのわずかな奥行きの誤差は、微細に振動するような感覚を見る者にもたらします。
原理や感覚の変容といった、ここでは記述したような現象的な変化は、オカルトとして斥けられるでしょうか。けれど、慣れている感覚がやぶれるように、認識が一時的に破綻するような、フィジカルな、パフォーマティブな、こちらに働きかけてくるイメージの力、本展の趣旨でいえば絵画の力は、確かにあるのです。
2019/03
[HUB-IBARAKI ART PROJECT2016-17] によせて
絵画の変革から絵画で変革へ
近代美術の流れの方向性を表す言葉に「モダニズム」がある。近代主義とか近代性と訳されるが、その一つの傾向として「自立」が挙げられる。絵画なら、王侯貴族のお抱えでない「自立した」画家が、物語にも風景にもよらず、ひたすら平面性、色と形と若干の筆触のみで(他の要素から自立した)作品を成立させる、ということである。だから抽象絵画などはモダニズムの最たるものだし、白い箱のような美術館の展示室で作品とにらめっこ対峙する鑑賞法もその影響だろう。たいていの芸術家がビンボーなのもモダニズムのせいかもしれない。
さて、作品だけ見る限り、中島麦はそんなモダニズムの流れをくむ「モダニスト」に見える。作品はほとんど抽象画だし、それが飛ぶように売れているという話も聞いたことがない。近年取り組んでいる、色とりどりの細かい点が撒き散らされた平面と一色で均質に塗られた平面の組み合わせによる作品も、空間・環境によって組み合わせを変えるところを除けば、個々の平面は過去のモダニズム絵画に類例がある。
しかし、彼をモダニストと呼ぶことには違和感がある。屈託を感じさせない肯定的で前向きな姿勢、他の作品に似ていることに頓着しない制作態度は、深刻な顔で絵画理論を語り、新しさとオリジナリティを追求するモダニズムの芸術家像とはあまりに対照的である。
この違和感はなんだろうと思っていたところ、彼が高校時代は演劇部だったと聞いて妙に納得した。彼は作品が「どう見られるか」を意識しているが、この意識も画家というよりは役者のものに近いのだろう。画家だって作品が他人から「どう見えるか」を気にするけれど、それは自分の視線が外から内(作品・自分)に方向転換しただけで、舞台上の役者と桟敷の観客のような関係ではない。また彼がライブペインティングや公開制作を積極的に行うのは、演劇と同じように観客の直の反応を求めてのことなのかもしれない。
多くのモダニズム絵画では、作家の社会的メッセージが直接的に表されることはない。これは社会と作家・作品が無関係なのではなく、作品を世に問うことで、見た人の意識が何となく変わり、間接的に社会に影響を及ぼす方法を採っている、と解すべきだろう。中島麦も自分の絵画に直接的なメッセージ性を持たせることはしない。一方で彼は、作家の活動として直接的に社会、地域コミュニティに関わろうとする。一見矛盾する二つの志向も、作品を役者、社会を劇場、人々を観客と考えればそれほど矛盾しないのではないか。つまり「作品を世に問う=人々が作品に出会う」部分を意図的に演出することで、社会に対する作品の作用を高めようという考えなのかもしれない。
今回のHUBいばらきでは、役所の戸棚や通路などが直接ペイントされ作品となる。用があってそこに来た人は「芸術を見る」という意識のないまま、唐突に作品に出会ってしまう。いわば絵画によるフラッシュモブである。何度かそんな作品との出会いを体験すれば、自分の周囲への意識が変わる。意識が変わった人が増えれば、きっと茨木はもっと楽しくなるだろう。
2017
WM
中島麦はこれまで、テクスチャーの全く異なる 2 つの抽象絵画を同じ空間に「対」で見せるとい うコンセプトのもと、抽象絵画の可能性を追求してきました。今回はそれをさらに発展させ、構 造的には 2 つは同じことであるとする新しいシリーズ「WM」を発表いたします。
「WM」というタイトルは有無(ウム)と読むこともできます。 「W」と題された複雑な画面の絵画(垂直方向のベクトルをもち、無数の微小な粒子と線で画面全体が構成されている)と、シンプルな画面の「M」(一色の絵具の巨大な一滴がキャンバスの 水平面に垂らされ画面全体を覆っている)との、一見全く違う 2 種類でこのシリーズは成り立っています。
しかし粒子の数や大きさの違い、あるいは重力のかかり方や描画の行程に違いこそあれ、観者の 目の前にあるのはどちらも「絵具の粒」に他ならないという意味では、2 つは実は同じ事象を捉 え同じ構造を持つものなのです。
そして特に「M」は、以前の単純な色面としてではなく、アクリル絵具という物質そのものの存 在を「W」以上に主張するものとして表現されています。
是非、中島の新しい抽象表現にご注目ください。
2016
【 革命がうまれる!!~占い師が見るニュイ・ブランシュKYOTO 2015 出展アーティスト “phenographics”~ 】
10/3(土)夜、ニュイ・ブランシュKYOTO 2015が開催される。
フランス・パリで毎年秋に一夜限りで開催されている現代アートイベントを姉妹都市である京都で行うもので今年、5周年を迎える。
メイン会場にあたる京都国際マンガミュージアムでは例年通りプロジェクションマッピングを楽しむことができる。
phenographics(フェノグラフィックス)はそのプロジェクションマッピングの出展アーティストである。
2人組の彼らはしかしプロジェクションマッピングを専門に活動しているわけではない。
現代美術作家である中島麦と映像作家のヤマダユウジという普段は個人で活動している組み合わせで彼らにとってプロジェクションマッピングは今回が初めての試みとなる。
phenographics名義の作品制作は今回が初めてだが、彼らが顔を合わせるのは今回が1度目ではなく大阪茨木市の若手芸術育成事業・第一回2013年度アートコンペティション「HUB-IBARKI ART COMPETITION」で中島麦の作品が受賞しその制作過程をヤマダユウジが撮影したのが初顔合わせであり結成のタイミングとなる。
筆者は西洋占星術を主とする占術師であるため星占いの視点から彼らのことを記すが、彼らは年齢は違うが同じ星座である。牡羊座だ。
2010年以来、この牡羊座には天王星が滞在している。
星占いでは星座や惑星にいろいろな意味を持たせているが天王星には「革命」という意味が付与されている。
革命とはなんだろうか。
因習をぶち壊す時代規模の大きなエネルギーのことだろう。
ニュイ・ブランシュで扱われる現代アート自体がクラシックなものから脱却したアート界の革命であるが、牡羊座である彼らは今その革命の申し子として今回の作品を作り上げた。
筆者は彼らの作品のリハーサルに立ち会うことができた。
涼しくなり始めた京都の夜、京都国際マンガミュージアムの黒で覆われた世界に一筋の白い光が映し出される。
BGMは今回のために音楽家・録音エンジニアである生形三郎氏に依頼したオリジナル。
中島麦の筆が絵の具をはじく音などをサンプリングし作られたBGMはまるで暗い深海から空へ向かって昇っていく気泡を思わせるようにしっとりとしかし力強く耳に心地よい。
音楽に導かれるようにヤマダユウジの映像は中島麦の作品の持つ個性、暗闇と眩しさ力強さを壁面へ投影していく。
BGMのリズムが波打つように速くなっていくのに伴って、観ている筆者の心拍数は上がり体が熱を帯びていくのを感じた。
今回のために中島麦が描画材を使い捉えた絵画現象は抽象的であるにもかかわらずヤマダユウジによって編集構成された映像はまるで胎児が母の胎内で前世の記憶を削ぎ落としながら羊水の暗い海を渡り明るい光を浴びるまでの命が瞬く赤ん坊の視点を追ったドキュメンタリーを思わせたのである。
それは観ている者さえも禊ぎ生まれ変わるような体感を覚えさせられる。
12星座は牡羊座から始まり魚座で終焉する人の一生の各パートだと考えることができる。
それで言うと牡羊座はスタートの星座、生まれたての赤ん坊を意味する。
牡羊座であるphenographicsの二人の見ている真新しい世界がここに共有化されるのである。
牡羊座には革命の星・天王星が滞在している。
10/3、京都の白夜に彼らは各々の慣れ親しんだ活動スタイルを打ち壊し新たな局面を迎えるが、その瞬間に立ち会う我々もまた既存のアート、従来のプロジェクションマッピングが打ち壊される革命を目撃することになる。
そして何より我々は彼らの作品を通して個人レベルでの革命を身体の芯に焼き付けられる。
作品を見る前と作品を見た後の自分は同じ人間でありながら全く別の細胞で内面を構築することになるだろう。
作品自体は3分40秒程の簡潔なものだ。
しかしその作品の後、観た者の心には長い余韻が残されているだろう。
彼らと我々のこれからがまだ未知数であり、期待と希望を受け入れるに足る器を秘めているのを予感させるように。
2015
「色の中に生き、色を探求」
中島麦のアトリエは、天満橋から北へ5分。昭和に建った鉄筋コンクリートビルの3階にある。1人がようやく通れる階段や通路の阻害感は、アトリエにはもってこいに感じられた。
作家のアトリエは、幾つもの顔料の塊が、彗星が衝突した如く、色の小片が空中で飛び散った、そんなことが想像出来た。ベニヤ板を白く塗って壁にしたという作業壁は、色の火花が壁に向って打ち上げられたようだ。その一部は、重力に従って色が垂れている。作業場所の壁や床、作家が作ったというキャンバスを固定するサイコロ型の作業台や木の棒は、同じように多数の絵の具が付着し、色が重なっている。そこから、ここ数年の作業が聞こえてくる。縦走する作業跡から、多種多様の色が、作品に用いられていたことが分かる。作家の作業着にも、壁面や床の色の堆積と同じように、絵の具が付着していた。
床には、色と色を調合した新色の白い容器が、作家が僅かに腰を下ろして作業する空間を残して、陣取っている。その容器は50以上もあろうか?全て異なる色が入っている。欲しい色を造るために色を混ぜる作業をしたこともあるだろうし、子供のように、色の種類の組み合わせ遊んだ様子もうかがえた。
出来た色はどんな色か?よく見えるほうが都合がいい。そのために、蓋や側面に中身と同じ色が大きく塗ってある。容器の蓋が、床の上で、まるで絵画を描いているようだ。大型チューブの絵の具が色の蓄えとして、30センチ×60センチほどの木箱に入れられていた。50個を超えるだろう。木箱の側面にも色と色の視覚効果を試した跡がある。椀型の青色のプラスチック容器から黄色の絵の具が垂れている。物置の奥の棚には、大きめのボールの原色の緑・赤色が見えるが、場所にすっかり馴染んでいる。刷毛立てのアルミの缶にも好みの色が塗られていた。
色は絵の具だけではない。机の上には100本はあろうか?という色鉛筆が丸い缶にに立てられている。
ここまで見えて来ると、作家..中島麦が、自閉的に色に執着して、色の中に生き、色を探求していることが分かる。
ゲーテは色彩論の中で、色を生理的、化学的、物理的な分野から考察を加え、色彩と人の視覚との関係性を色彩の感覚的精神的作用として論じている。まさしく、中島麦は、アトリエに大きな照明を設置し、周く色彩と光の関係を探求し、客観的な視点で色を捉え、共感する感情を作品の中に造り込んでいる。
作り手は偏執することを求められる。偏執的でなければ、芸術家とは言われない。しかし、その偏執というのは、一つの大きな決まり事を探る作業である。ゆえにアトリエの中の作業跡でさえ、実に無造作なものは何も無い。作家は、無意識にアトリエの中の色の有様や配置を決めている。衝動的に色を使った跡でさえ、実は秩序と調和が感じられた。
自身の色への執着とアトリエでの実験的作業の繰り返しが、作品を能動的に創造していく力になっている。楽しみな作家である。
画廊編&ぎゃらりかのこアートディレクター 中島由記子
2015年3月10日付/大阪日日新聞掲載
~関西美術探訪<640>阪大美学研究室より
「カオスモス・ペインティング」
中島麦の新作「星々の悲しみ」は、カオスモスな絵画の始まりなのかもしれない。
これまでの中島の絵画は、「アクリル絵の具の鮮やかな色彩とベタ塗りを重ねた色面で構成され」*1た抽象画であった。風景をもとにドローイングの蓄積によって生れた安定感のある構図や色彩は、コスモス(秩序)と言ってもいいだろう。対して、今展では異なるテクスチャー、技法による2種類の絵画の組み合わせによって構成されている。
ひとつは、絵の具の流動的な滲みや重なりが動的、偶発的なフォルムを形成し、もう一方は、画面全体にアクリル絵の具一色が塗られた静的な絵画である。前者はアンフォルメル、抽象表現主義の絵画やサム・フランシスの作品を思わせ、後者はハード・エッジのエルズワース・ケリー、カラー・フィールド・ペインティングのバーネット・ニューマン等の絵画を想起させるだろう。それら2種類の絵画は、秩序(cosmos)と混沌(chaos)、静と動、単純と複雑、ディオニュソス的とアポロン的、論理と感性の対比であり、C・グリーンバーグ、H・ヴェルフリンに倣えば「絵画的であること(ペインタリネス)」と「線的(リニア)」といった両極端な絵画によって成立している。だが、グリーンバーグも述べるように、絵画的と線的の絵画の境界線は固定したものではない。
カオスモスとは、カオス(混沌)とコスモス(秩序)の合成語である。中島は、異質な2種類の絵画を組み合わせて展示することで、ひとつのカオスモス(chaosmos)な絵画空間を構築するのである。そして、2種類の絵画の組合せには厳密な法則はなく、空間に合わせてインスタレーションされるという。宇宙が季節や時間によって「妙なるリズムとともに限りなく変転してる」*2ように、「星々の悲しみ」の絵画もまた展示される空間によって組合せや展示は変転・変化するだろう。中島は、異質なカオスとコスモスが共存する空間を可変的に構成することで、ポリフォニックな絵画のあり方を提示したのである。その試みは、まだ始まったばかりである。
2013
*1 酒井千穂『中島麦 悲しいほどお天気:作品リーフレット』Gallery OUT of PLACE、2011.12
*2 宮本輝『星々の悲しみ』文藝春秋(文春文庫)、2008年、31ページ。
CHAOSMOS PAINTINGS
New work by Mugi Nakajima ”Blue on blue” may be begining of the ”CHAOSMOS PAINTINGS”.Until now, the abstract painting of Nakajima consists of vivid colors of acrylics and coloring faces plastered with paints.
The stable composition and colors, made of accumulation of drawings of landscape, can be called ”Cosmos” (order).On the other hand, ”Blue on blue” series are composed of two types of paintings of different textures and techniques.One is dynamic painting in which the fluid of colors runs and lays on canvas, and forms accidental pictures.The other is quiet painting in which the only one color covers all over the canvas.
The former recalls us the Art informel, the abstract expressionnism, or works of Sam Francis. And the latter brings to our mind the Hard Edge paintings like Ellsworth Kelly, or the Color Field paintings like Barnett Newman.Those two types of paintings are contrast between ”order” (cosmos) and ”chaos”, quiet and dynamic, simplicity and complexity, Dionysian and Apollonian, logic and sensibility.”Blue on blue” is composed of two opposite paintings ; ”Painterliness” and ”Linear” in C.Greenberg's or H.Wolfflin's words.However, as Greenberg said, the borderline of ”Painterliness” and ”Linear” is not fixed.
CHAOSMOS is compound word of chaos and cosmos (order).
Nakajima build Chaosmos pictorial space by showing side by side these two different paintings.The combination of those has no strict rules, and he considers it a kind of installation.The cosmos is ever-changing in exquisite rhythm in accordance with seasons or times. ”Blue on blue” paintings are also ever-changing, and its combination and the way to exhibit continue changing according to the exhibit space. Nakajima composes variably the space in which the chaos and the cosmos coexist to show what the polyphonic painting is.His trial only have just begun.
text by Hirata Takeshi
中島麦の「青」を読む
中島麦の新シリーズのタイトルは「星々の悲しみ - blue on blue - 」となっている。
blue on blueという副題には、様々な意味がこめられているようだ。
作家が好んで使う絵具やメランコリックな精神状態を表す色としての「青」であることは言うまでもない。
しかし描かれた作品を目の前にこのタイトルをもう一度読み直すと、
「青」という言葉を用いた裏には、地球や宇宙を俯瞰するまなざしが隠されていることがわかる。
非常に壮大な広がりを持つバーチャルなビジュアルが、作品のイメージとタイトルから立ち昇ってくる。
中島の新シリーズは、全く異なるテクスチャーの2種類の絵画が、同じ空間にインスタレーションされた状態で展示されている。
異なる2種類の絵画は、どちらも抽象絵画ではあるのだが、
一つは非常に複雑なテクスチャーと多様な色使いが絡み合うように表現された絵画である。
画面構成や全体の色味に作家の意図が反映されてはいるものの、筆や刷毛の痕跡はほとんど無く、
絵具の混ざり合いや滲み、表面張力による紋様など、自然現象を利用した「偶発的な」絵画とも言える。
片やもう一方は、その対極にあるもので、均質な色面でしかも一色のみで描かれたものだ。
極限にまで単純化された画面は、刷毛で丹念にアクリル絵具が塗り込められており、作家によって完全に支配された絵画になっている。
対極にある様な2種類の作品は、時と場所にあわせて自由自在に配置されるとの事で、
隣に来る作品があらかじめ決まっているのでもなければ、必ずしも交互に配置されるべきものでもないらしい。
その空間が2種類の作品で構成されるという事だけが決められており、
あとはその場所とそれぞれの作品の間の引力にまかせ、恣意的に設置されることになる。
上記に ”インスタレーションされた状態" と敢えて書いたのは、この様な理由からだ。
先に述べた「宇宙的なまなざし」でこの2種類の絵画を視る時、
前者は宇宙から観た地球の姿を彷彿とさせ、後者の均質な画面の絵画は、あたかも地球から観た宇宙(それはつまり空を意味するのかも知れない)のようにも見えてくる。
あるいは「ミクロコスモス」と「マクロコスモス」と読むことができるであろうし、「偶然」と「必然」とも呼べるかもしれない。
いずれにせよ、作家は両極を行き来する中で意図的に、『モチーフ』という独善から距離を置き、曖昧な『作家性』を限りなく排除しているかに見える。
しかしその結果、パラドクサルにも強烈なオリジナリティを獲得することになっているのは興味深いことである。
世界初の有人宇宙飛行を達成したユーリイ・ガガーリンの言葉【地球は青かった】を引用する時、blue on blueという副題は更に意味深長なものになるだろう。
昨今の映像技術の進化に伴い、NASAの宇宙探査機などが持ち帰る映像には目を見張るものが多い。
私達は地球の外にひろがる鮮やかな色や形に、新奇で特別ななにかを模索しようとする。
しかしたとえ現代のテクノロジーを駆使し宇宙の神秘を捉えたとしても、それが機械の眼によるものである限り、
はじめて地球を外から見たガガーリンの脳裏に焼き付いた「青」を越えるものとはならないだろう。
悲しいかな、私達の想像の中においてのみ、地球は真に青く、宇宙は無限に蒼いのである。
私達の眼に直に触れるblue on blueという名の絵画には、文学・哲学からテクノロジー・科学まで、壮大な宇宙観が内包されているといってしまうのはおおげさだろうか。
(ちなみに「星々の悲しみ」は宮本輝の同名短編小説から引用している。)
2013
中島麦の世界~奈義MOCAの場合~
旅は人の心を解し、主観の世界から客観の世界へ自由に導いてくれる。異国の地で異文化に生きる人たちと出会い、交流のきっかけをつくり繋げてくれるのもそういう作用が働くからでもあろう。いわば、現在・過去・未来の自分と向き合う時間を約束してくれる。そんな側面も持ったものである。そこから紡がれる時間や記憶は、自分だけの永遠の価値を持った思い出としていつまでも心の中に生き続ける…
画家中島麦は、<旅の記憶>や<日常の記録>をモチーフにし、水彩、アクリル、パステルなどの一般的な画材を自由自在に用いながら、明るい色調の絵画を描いている。彼は、日常生活の中の面白かった記憶、旅に出た時の心に残った情景を明るい絵画作品に描き繋げていく作業をしている。それは彼にとって、人が朝に顔を洗ったり、夜お風呂に入ったり、また日記をつけたりというような日常の一コマとして溶け込み一体化したものであるが、その行為は、ある種日々の生活の中で何気ない出来ごとにも敏感に反応し常に感謝の念を捧げる祈りのようにも解釈でき、彼の絵画制作への思い、誠実で真摯な姿勢を垣間見ることができる。
中島は、旅する中で眼の前を通り過ぎていったり、昔どこかで見たことがあったり、心の中に浮かぶ風景であったり、またはいつまでも記憶の中に存在する風景などの残像が自身の中で積み重なり、蓄積された記憶を絵画に現出させていく。キャンバスの上をまるで這うように生き生きとした筆跡で塗られている色面空間は、色彩豊かでスピード感に溢れている。それは彼の優しさと爽やかさが絶妙に絡み合ったもので、明るい構図の絵画は我々に不思議な心地よさと安らぎを保障してくれるものでもあるようだ。
2012年9月1日から23日まで奈義MOCAギャラリーで開催した個展は、多数の近作、新作約170点を一堂に集めた大規模な作品展となった。中島が旅する気持ち、あるいは旅した後の残像を大切に、アクリル絵具で描いたタブローや、水彩、色鉛筆やオイルパステル等を併用させ独特のリズム感で描いたドローイング等、奈義MOCA自慢の大小2つのホワイトキューブなギャラリー空間を、圧倒的なボリューム感で占拠、支配してみせた。しかし、空間全体を覆い尽くす様な展示でも窮屈感がなく、季節ごとの草花のほのかな香りに囲まれたような明るく見どころ満載の展覧会となり、中島の絵画の持つしなやかさと画力が充分発揮できた展示であった。空間をほぼ隙間なく埋めることで、あたかも直接ギャラリー壁面にデザインしたり、絵具で絵を描いたかのような大胆かつ絶妙な展示は、美術館開館以来初の試みでもあり、新鮮な驚きを隠せなかった。
この展覧会が、見る人の旅の記憶を呼び覚まし、心の旅の友として、いつまでも心の中に記憶されるものになれば幸いである。
2012
酒井千穂(アートライター)
私たちはときどき、「気の置けない」という言葉を口にする。しかし考えてみると、常に存在物のただ中にいる私たちは、普段は周囲の多くの存在について問うことはなく、さまざまなものに無関心でいられる。それは、自分自身と対象の存在との関係、脈絡を了解しているということの証しでもある。だからこそ私たちは、「気の置けない」と口にしたとき、その言葉を意識したときに改めて、対象の存在へと思いをめぐらせるのだろう。
「何気ない」という場合もまたそれと似ている。「何気ない」無意識の行為や思考は、それまで意図になかったり認識していなかった“何か”を意識的に見つめたときに、ふわりとその輪郭が浮かび上がってくるものだ。 そのような、自分では計ることの難しい、日常の精神的、身体的感覚や行動、ひいては等身大の自分について想像を募らせるふとしたきっかけ。中島麦の作品について考えていると、そんなことがあぶり出しのように頭に浮かんでくる。
中島は、自身が目にした風景の記憶と、さまざまな風景を撮影した写真を元に、ドローイングを何度も何枚も描き、タブローへと展開していく。アクリル絵の具の鮮やかな色彩とベタ塗りを重ねた色面で構成されるその絵画では、モチーフは抽象化され、色と形態のイメージ、筆跡の表情が見る者の想像を掻き立てていく。描かれているものが風景だとしたら、どんな場面の、どんな景色だろうか?鑑賞者はこのように、過去の自らの記憶、感情体験を重ねながらその画面に向き合うことだろう。けれども私は、そこで鑑賞者が、見たことのない“ある風景”に向き合うというよりも、その “ある風景”そのものに身を委ね、アーティストの身体的感覚にも共鳴を覚えるような、そんな緩やかな余地を感じさせる彼の作品の魅力にも注目したい。
「絵を描くことは、日々の生活の“氷山の一角”にすぎず、日常の集積、雑然とした時間の蓄積の上に成るひとつだと考えている。」と言う中島は、毎日のようにドローイングを描きためている。 アトリエを訪問した時、 中島は自らが撮影した風景写真の数々と、それらを元に色鉛筆や絵の具で描いた、膨大な数のドローイングを見せてくれた。 どちらも、作品制作においての思考や感覚というプロセスをとどめる記録でもあるし、素材でもあるものだ。 しかしそれらは、制作のために用意、作成されているようには感じられない。写真やドローイングの持続や数といったものは、中島麦という作家においてはまったく目的ではない。量やそれに費やした時間は単なる結果に他ならない、そのように感じた。ではいったいそれは何なのだろう。
鉄道の旅が好きだという。中島が見せてくれた鉄道地図の本には、彼がこれまでに旅したルートが赤いペンでなぞられていた。日本全国をほぼくまなく旅していることが明らかな地図帳だ。電車の車窓に流れてゆく景色や、自分が移動しているというリアルな感覚、人々との出会い。中島の作品において旅が重要なキーワードとなっていることはまぎれもない。それもさることながら、その制作の在り方を知るヒントとして、私はさらに興味深いものを見ることができた。彼の趣味としてのコレクションだ。 何冊ものスクラップブックに整然と貼られた、購入した服のタグやタバコのパッケージなど…何年分だろうか、ファイリングされたその丁寧な行為の蓄積には実に目を見張るものがあった。そしてこのとき私は、中島の日々のドローイングや写真撮影、コレクションといった行為への感覚が、呼吸に近いものであると理解してハッとする思いがした。中島は、生活という時間、その環境で吸い込んでいるものを、ごく自然に蒐集や表現として身体感覚的に吐き出し、循環させている。それはとてもつつましく、中島にとってはきっと極めて単純で当然の運動的行為なのだ。
描かれるタブローは、何か強いメッセージを訴えるものでも、何かの存在を象徴するのでもない。途切れることのない呼吸のような有り様、そのときの中島の感覚そのものが重なったもので、きっと彼の表現したいものはそのようなことなのだろう。目指す世界を意図して描くのではなく、むしろ彼自身が受け入れ、受け止めた世界、そこで知った時間をどのように表現するのか。それが彼の制作の在り方のように感じられる。
中島の個展を訪れると、私は今まさに自分が立っている場所と、実際には目には見えないけれど実は地続きである彼方の大地のイメージがゆっくりと繋がってゆくような連想が掻き立てられることがある。それは、連綿と続く大きな時間の流れのなかに生きているちっぽけな自分の輪郭を朧げにも把握できる感覚が喚起される、ということでもあるのかもしれない。
画面に表わされたかたちのリズム、あるところでは力強く、あるところではしなやかに流れる筆致、そして色彩の厚みは、それら自体の強度が画面全体に振動を与え、空間的な広がりを連想させる。だから私は、そこに画面という枠を超えたその先の風景、時間を連想するような、解放感にも似た身体感覚としての心地良さをも覚えるのだろう。特に近年よりの作品にはその強度が増しているように思える。とはいえ、中島の表現はひとところには止まらない。これまでもその表現はときには少しだけ、ときには大きく変化してきた印象がある。今後、どのようにその表現は展開されるのだろう。いずれにしても注目し続けたい作家であることには変わりない。